伊東甲子太郎
【名前】
伊東甲子太郎 【紹介】
天保6年(1835年)、常陸国志筑藩士※鈴木専右衛門の長男として生まれる。初名は鈴木大蔵。実弟に三木三郎がいる。
大蔵は若くして志筑藩の隣水戸藩へ出て文武に励む。剣は神道無念流を修め、また尊皇攘夷思想の影響を強く受けた。
その後江戸に出た大蔵は、深川の北辰一刀流伊東精一郎道場に入門。やがて塾頭となり、後に御陵衛士となる同志たちとも出会う。伊東精一郎が死去すると、その娘うめと結婚して伊東大蔵を名乗り、道場を継いだ。 元治元年(1864年)9月、かつて道場に出入りしていた藤堂平助からの誘いを受け、門人や同志とともに新選組に入隊。
11月の行軍録では二番組頭に就いた。
慶応元年(1865年)2月、副長の山南敬助が切腹した際には4首の弔歌を詠んでいる。
伊東は副長助勤、次いで参謀に就いて新選組のナンバー3となり、江戸での第2次隊士募集、広島への長州訊問使随行、九州への探索など重要な仕事を任された。 慶応3年(1867年)3月、伊東は御陵衛士を拝命。薩摩や長州の動向を探るためとして、同志を従え新選組から分離した。
伊東らは高台寺月真院を宿所とし、反幕府勢力と接触するようになる。
近藤が長州に厳しい制裁を加えることを主張するのに対し、伊東は寛大な処置に留め諸侯の一致団結を主張したため、両者の溝は深まっていったと思われる。
また大政奉還後には朝廷に建白書を提出。徳川家の政権参加などを唱えたが、武力討幕を目論んでいた薩長からの受けは悪かったようだ。 11月18日、伊東は単独で近藤勇の妾宅に向かい、近藤、土方と会談。その帰り道の油小路にて、大石鍬次郎らによって殺害された。享年33。
遺体を引き取りに来た御陵衛士らも新撰組と戦闘になり、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が討死。四人の遺体は御陵衛士残党を誘い出すための囮として数日放置された後、光縁寺に埋葬される。その後三木三郎らによって改めて戒光寺に葬られた。 大正7年(1918年)、従五位を贈られる。 【声優】
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– 【更新日付】
2020/08/31 03:47:09