array(1) {
[0]=>
array(9) {
["id"]=>
string(5) "12821"
["name"]=>
string(12) "島津豊久"
["img"]=>
string(13) "12821_img.jpg"
["desc_txt"]=>
string(1726) "薩摩・島津氏一族の戦国武将。父は第十五代目当主島津貴久の四男でその軍法戦術で知られる島津家久。
幼名は豊寿丸。仮名は又七郎。最初の諱は忠豊。
父が総大将を務めた沖田畷の戦い(対龍造寺隆信戦)で初陣を果たし、敵一人を討ち取っている。
その後豊臣秀吉による九州征伐が始まり、島津氏は豊臣氏に降伏することになる。しかし、父家久が急死。以後は家久の兄である島津義弘に養育され、実子同様に扱われたという。
やがて父の跡を継いで日向佐土原城城主に就任。秀吉に従って文禄・慶長の役や小田原征伐などに従軍する。秀吉の死後は、重臣伊集院氏との内乱である庄内の乱に出兵して武功を挙げる。
関ヶ原の戦いにおいては伯父義弘と共に西軍として参加。しかし、庄内の乱の影響で大軍が送れず、更に義弘が提案した作戦が一蹴されるなどが原因で西軍に対する不信感が募り、戦闘には積極的に参加しなかった。
関ヶ原本戦で西軍が敗れると、切腹を覚悟する義弘に撤兵を促し、有名な島津の退き口を展開する。豊久は先陣を務めるが、徳川家康による追撃は激しく、義弘の身代わりとなって戦死した。
なお、関ヶ原に先立ち、大阪屋敷で病床に伏せていた日向・飫肥の伊東祐兵と面会し西軍への参加の約束を取り付けている。文禄・慶長の役で共に戦った縁からであったが、当の祐兵は裏で徳川家康と通じており東軍に付き、約束を反古にしている"
["contents_id"]=>
string(4) "1064"
["actor_id"]=>
string(4) "1454"
["youtube_url"]=>
string(43) "https://www.youtube.com/watch?v=mGCcecxCBZI"
["date"]=>
string(19) "2020/08/31 02:00:56"
["deleted_flg"]=>
string(1) "0"
}
}
島津豊久
【名前】
島津豊久 【紹介】
薩摩・島津氏一族の戦国武将。父は第十五代目当主島津貴久の四男でその軍法戦術で知られる島津家久。
幼名は豊寿丸。仮名は又七郎。最初の諱は忠豊。
父が総大将を務めた沖田畷の戦い(対龍造寺隆信戦)で初陣を果たし、敵一人を討ち取っている。
その後豊臣秀吉による九州征伐が始まり、島津氏は豊臣氏に降伏することになる。しかし、父家久が急死。以後は家久の兄である島津義弘に養育され、実子同様に扱われたという。
やがて父の跡を継いで日向佐土原城城主に就任。秀吉に従って文禄・慶長の役や小田原征伐などに従軍する。秀吉の死後は、重臣伊集院氏との内乱である庄内の乱に出兵して武功を挙げる。
関ヶ原の戦いにおいては伯父義弘と共に西軍として参加。しかし、庄内の乱の影響で大軍が送れず、更に義弘が提案した作戦が一蹴されるなどが原因で西軍に対する不信感が募り、戦闘には積極的に参加しなかった。
関ヶ原本戦で西軍が敗れると、切腹を覚悟する義弘に撤兵を促し、有名な島津の退き口を展開する。豊久は先陣を務めるが、徳川家康による追撃は激しく、義弘の身代わりとなって戦死した。
なお、関ヶ原に先立ち、大阪屋敷で病床に伏せていた日向・飫肥の伊東祐兵と面会し西軍への参加の約束を取り付けている。文禄・慶長の役で共に戦った縁からであったが、当の祐兵は裏で徳川家康と通じており東軍に付き、約束を反古にしている 【声優】
中村悠一 【作品】
DRIFTERS 【Youtube動画】
https://www.youtube.com/watch?v=mGCcecxCBZI 【更新日付】
2020/08/31 02:00:56