近藤勇
【名前】
近藤勇 【紹介】
天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡の百姓宮川家の三男として生まれる。
幼い頃から『三国志』や楠正成、加藤清正の武功談を好み、特に関羽がお気に入りだったという。
父久次郎が自宅に設けていた道場で天然理心流剣術を学び始め、15歳で試衛館の近藤周助に入門。数か月で目録に達するほどの才能を見込まれ、翌年には周助の実家の嶋崎家の養子となり、天然理心流宗家の跡継ぎとなった。
多摩各地の天然理心流後援者の元へ何度も出稽古に赴いているが、その際土方歳三と出会い、義兄弟の契りを交わしたという。
万延元年(1860年)には一橋家家臣の娘つねと結婚。2年後には長女たまが生まれる。
文久元年(1861年)、28歳で天然理心流4代目宗家を襲名。正式に近藤姓を名乗った。 文久3年(1863年)1月、上洛する14代将軍徳川家茂警護のために浪士組が募集されると、門人の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らとともに参加し上洛。
すぐに浪士組は江戸へ帰還することになるが、近藤ら試衛館の面々と芹沢鴨の一党らはそのまま京に留まり、会津藩主松平容保の御預りとして壬生浪士組(後の新選組)を結成。近藤は芹沢、新見錦とともに局長に就く。
芹沢らの粛清後、近藤は副長の山南敬助、土方歳三に支えられ、新選組のトップとして組織をまとめていった。 元治元年(1864年)6月、池田屋事件の際には自ら池田屋に突入し、数多くの浪士を殺傷・捕縛することに成功する。
この事件で新選組は一躍名をあげ、近藤は幕府の一翼を担う人物として政治の表舞台に参加していくことになる。同年9月には江戸に赴き、伊東甲子太郎をはじめとする実力者たちを新選組に招き入れるほか、将軍の再上洛を要請した。
またこの頃谷三十郎の末弟千三郎を養子に迎え近藤周平を名乗らせ、一方で沖田総司を天然理心流の後継とする旨を故郷への手紙に記した。 慶応二年(1866年)、第二次長州征伐の最中に将軍家茂が急逝。次いで親幕の態度を取っていた孝明天皇が崩御し、幕府の権威は益々失墜する。
翌年3月には伊東甲子太郎らが御陵衛士を拝命し新選組を離脱。
6月、新選組は幕臣に取り立てられ近藤は旗本となるが、10月に薩摩・長州に討幕の密勅が下り、徳川慶喜はこれを回避するために大政奉還を行う。しかし江戸幕府は少なくとも名目上の終わりを告げることになった。近藤はこの大政奉還を批判したという。
11月18日、長州を擁護する姿勢を見せた伊東甲子太郎を暗殺。その遺体で御陵衛士らをおびき出し襲撃する(油小路事件)。その翌月、二条城からの帰り道で近藤は御陵衛士残党の阿部十郎、富山弥兵衛らの襲撃を受け、肩を負傷。その場を逃げ延びるも、当分の療養を余儀なくされた。 翌年、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗北。新選組も井上源三郎はじめ多くの戦死者を出し、江戸へ引き上げた。
その後、新撰組は甲陽鎮撫隊と改称し、近藤も大久保剛と変名。勝海舟の指示で甲州へ向かう。しかし一足先に新政府軍に甲府城を抑えられ、勝沼の戦いで敗走。試衛館以来の同志であった永倉新八、原田左之助らも離反してしまう。
新選組は流山にて再起を図るが、新政府軍に包囲される。事態の打開のために近藤は自ら投降、鎮撫のための部隊であることを主張するが、元新選組にして御陵衛士残党の加納鷲雄、清原清に正体を暴かれ、明治元年4月25日(1868年5月17日)、板橋にて斬首された。享年35。
首は京都の三条河原に晒されたが、その後の行方は不明。 【声優】
大川透 【作品】
薄桜鬼 碧血録(第2期) 【Youtube動画】
https://www.youtube.com/watch?v=YL1E7pTTumc 【更新日付】
2020/08/31 03:48:23