池田恒興
【名前】
池田恒興 【紹介】
父・池田恒利、母・養徳院の子として生まれる。出身地は尾張・美濃・摂津・近江等諸説があり、はっきりとしていない。母・養徳院は織田信長の乳母で、信長の父・織田信秀と再婚して側室となっている為、信長とは乳兄弟であると同時に義理の兄弟でもあった。 恒興は幼少の頃から小姓として織田家に仕え、また信長の遊び友達として、信長の放蕩無頼な遊びに付き合っていた。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いや美濃攻略戦に従軍して、元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは戦功があった事で尾張犬山城主となり、1万貫を与えられ、以後も長篠の戦い等、信長の主だった戦いに参陣する事になる。 天正8年(1580年)、信長に抵抗し、花隈城に籠もる荒木村重を自身が総大将を務め、嫡男・元助、次男・輝政と共に包囲。花隈城の抵抗は苛烈で恒興自身が直接敵兵を5、6名討ち取る程の大乱戦に展開した事もあったが、結果は見事に荒木村重を撃破して花隈城を開城、恩賞として荒木の旧領である摂津有岡領を領する事となった。 天正10年(1582年)に武田征伐で武田氏が滅亡した際、密かに落ち延びた武田勝頼の三男・武田勝親を匿い保護した。 同年、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流。山崎の戦いでは兵4,000を率いて右翼先鋒を務め、嫡男元助と加藤光泰と共に明智軍の部将・津田信春を奇襲、撃破して秀吉の勝利に貢献、織田家の宿老に列する。 織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家・織田信孝らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信。信長の嫡男である織田信忠の嫡男)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内、大坂・尼崎・兵庫において12万石を領有した。翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参陣こそしていないものの、織田信孝の遺領である美濃にて13万石を拝領し大垣城主となった。 天正12年(1584年)、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局恒興は秀吉方として参戦する事になる。緒戦ではかつて恒興自身が城主を務めた事もある犬山城(この時の犬山城主は織田信雄側の中川定成)を奇襲して攻略、更には丹羽氏重が籠る岩崎城を、嫡男の元助と娘婿であり、「鬼武蔵」の異名で名高い森長可と共に攻略する(岩崎城の戦い)等、奮闘を見せる。その後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉・森長可・堀秀政と共に家康の本拠三河国を攻めようとしたが、合戦の前半で鞍に銃弾を受け落馬した事が災いとなり、長久手にて長可と共に戦死。戦死の状況は、床机に座って陣中を立て直している所に、徳川軍の武将である永井直勝の槍を受けてのものだと言われている。享年49。恒興の遺体は一時、遠江新居に葬られたが、後に京都・妙心寺の護国院に改葬されている。 嫡男の元助もこの戦いで父と共に討ち死にした為、池田家の家督は次男の輝政が相続。輝政は後に関ヶ原の戦いで徳川方に付いて勝利に貢献。恩賞として播磨姫路52万石を領し、更にはその子孫が其々備前岡山藩(31万5000石)、因幡鳥取藩(32万5000石)を領し、明治に到るまで美濃池田氏が繁栄する事となった。 因みに長久手で恒興が討ち死にせず、戦いが秀吉方の勝利に終わったならば、秀吉より尾張一国が与えられる約束であったという。 pixivでは、戦国大戦に登場する池田恒興や信長協奏曲に登場する池田恒興を描いたイラストが多い。 【声優】
内田雄馬 【作品】
胡蝶綺 ~若き信長~ 【Youtube動画】
https://www.youtube.com/watch?v=bgl4JzAybKw 【更新日付】
2020/08/30 18:06:41